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いんじゅうトリステサ

橘外男ワンダーランド 人獣妖婚譚篇

橘 外男

線上閱讀橘 外男《橘外男ワンダーランド 人獣妖婚譚篇(いんじゅうトリステサ)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 154,788 字 · 299 頁

青空文庫

が、今の私にとって一番に心の寛ぐ時なのであった。

もちろんそうした書籍に眼を晒していたからとて、心のどこかでは妻の帰りが気になって、絶えず玄関の植込みへ滑り込んで来る自動車の音ばかり聞き耳を立てているのであったから、昔のまだ独身時分のように読んでいる書物の中に、身も魂も打ち込むということはできなかったが、それでもまだこの方法が酒も嗜まず賭事も好まず、さりとて倶楽部へ行くことも嫌いな私にとっては、一番に心の休まる方法なのであった。いくら私が帰りを待っていたからとて、もちろん妻は私のところへなぞ顔出しをして帰って来た挨拶をするわけではない。さすがに跫音だけは深夜の空気を憚って、高い踵でコツンコツンと階段を上って行くのであったが、その跫音は一直線に自分の寝室へと引き取ってしまうのであった。が、それでも私にとっては妻が帰って来て、この同じ屋根の下に今眠っていると考えることが、一種の安心とも付かなければ落ち付きとも付かぬ気持を与えて、それからは読んでいる本の活字もしっとりと頭にはいってくれば、また私も安心して階上の寝室に引き取って眠りも取れるという工合なのであったが、さて満たされぬ悩ましさは、なまじいにその水々しい姿態を朝夕見ているだけに、この頃の私にとってはいよいよ痛切堪え難きものとなってきたのであった。