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かごつるべ
江戸情話集
岡本 綺堂
線上閱讀岡本 綺堂《江戸情話集(かごつるべ)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 203,779 字 · 407 頁
彼女の唇は悲しそうに結ばれたままでほぐれなかった。彼女は明るい灯のかげを恐れるように、絶えず伏目になっていたが、その眼にはいつの間にか涙がいっぱいに溜まっていた。胸も切なくなってきた。こめかみも痛んで来た。悪寒もして来た。彼女はもう堪らなくなって、消えるように座敷からその姿を隠してしまった。
八月ももう末の夜で、宵々ごとに薄れてゆく天の河の影が高く空に淡く流れていた。すすり泣きをするような溝川の音にまじって、蛙は寂しく鳴きつづけていた。
「これ、何を泣く」
不意に声をかけられて、お染ははっとした。泣き顔を拭きながら見返ると、自分のうしろに笑いながら突っ立っている男があった。
「泣くほど悲しいことがあれば、おれが力になってやる。話せ」
お染は身をすくめて黙っていると、男はかさねて言った。
「いや、怖がるな。叱るのでない。何が悲しい、訳をいえ」
その訳をあからさまに言いにくいので、お染はやはり黙っていた。廊下に洩れて来る灯の影がここまでは届かないので、男の容形はよく判らなかったが、それが江戸の侍であることは、強いはっきりした関東弁で知られた。お染は彼を今夜の客の一人と知って、いよいよ怖ろしいように思われた。