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しゅみのいでん

趣味の遺伝

夏目 漱石

線上閱讀夏目 漱石《趣味の遺伝(しゅみのいでん)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 38,235 字 · 77 頁

青空文庫

余がこの年になるまでに見た女の数は夥しいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云って宜しい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。余は浩さんの事も忘れ、墓詣りに来た事も忘れ、きまりが悪るいと云う事さえ忘れて白い顔と白いハンケチばかり眺めていた。今までは人が後ろにいようとは夢にも知らなかった女も、帰ろうとして歩き出す途端に、茫然として佇ずんでいる余の姿が眼に入ったものと見えて、石段の上にちょっと立ち留まった。下から眺めた余の眼と上から見下す女の視線が五間を隔てて互に行き当った時、女はすぐ下を向いた。すると飽くまで白い頬に裏から朱を溶いて流したような濃い色がむらむらと煮染み出した。見るうちにそれが顔一面に広がって耳の付根まで真赤に見えた。これは気の毒な事をした。化銀杏の方へ逆戻りをしよう。いやそうすればかえって忍び足に後でもつけて来たように思われる。と云って茫然と見とれていてはなお失礼だ。死地に活を求むと云う兵法もあると云う話しだからこれは勢よく前進するにしくはない。墓場へ墓詣りをしに来たのだから別に不思議はあるまい。