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やつがたけのまじん
八ヶ嶽の魔神
国枝 史郎
線上閱讀国枝 史郎《八ヶ嶽の魔神(やつがたけのまじん)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 160,664 字 · 323 頁
しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。
それは逝く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった待遇を受け、欝していた彼の心持ちも頓に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て亭の方へ行って見た。
すると誰やら若い女が亭の中で泣いていた。
近寄って見ればお露であった。
亡き父の訓めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ表面だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく現実と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。
「何が悲しくてお泣きなさる」
こう云う声は顫えていた。
お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。