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きょうふのきせつ
叢書名著の復興1 恐怖の季節
三好 十郎
線上閱讀三好 十郎《叢書名著の復興1 恐怖の季節(きょうふのきせつ)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 257,544 字 · 508 頁
その理由はいろいろあるが、最も大きな理由は、ドキュメントの部分と演出された部分とが互いに相殺するからである。それと、この場合が似ている。
ドキュメントというものは、それを生んだ大前提ポイント・オヴ・ヴュウに対して、まったく疑う余地のない客観的に完全な信頼性が与えられていなければ、ザッハリッヒは出て来ない。たとえば『戦歿学生の手記』中の一篇の方が、この「あ号作戦前後」よりも、「美」はどうか知らぬが、「真」と「力」をわれわれに感じさせるのである。
またフィクションの場合は、作者が現実に向ってした「認識の戦い」の末に「決定」があって、はじめてザッハリッヒが生まれる。別の言い方で言えば、現実を認識するにあたって、自我が燃焼して現実が再編成され再生して、はじめて冷たい事実以上にリアルな現実感が生れる。たとえば、志賀直哉は「真鶴」の中で、対象を見つめ抜いて、それを「自」か「他」かわからぬところまで追いつめて、最後に「決定」している。ために、主人公の子供は、ザッハリッヒに生き動いているのである。(――実は、それが「表現」の本質であると私は思う。)「あ号」は、そのいずれでもなく、しかも、右のようなドキュメントとフィクション双方の持ち得るメリットを二つながらあわせ取ろうとした作品だと思う。