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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

線上閱讀豊島 与志雄《幻の彼方(まぼろしのかなた)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 頁

青空文庫

次にまた少し低く三四声響いた。それから、くちゃくちゃな静けさになった。

初めの啼声に立ち竦んでいた順造は、はっとして飛び上った。廊下に出て向うへ行こうとすると、廊下の茫とした薄ら明りが、こちらを見守ってる死人の眼のように感ぜられた。彼はまた室にはいって襖を閉め切った。胸が高く動悸していた。

ざわざわしたどよめきが、彼方の室に起っていた。暫くして、先刻と同じ啼声が今度は落着いた調子で響いてきた。それから後は、頭の加減それとも実際にか、めいるような静けさになった。

彼はぼんやり其処に腰を下した。頭の働きがぴたりと止って、不思議なほど何にも考えられなかった。

「旦那様、旦那様!」強い調子で向うから呼んでる女中の声に、彼は初めて我に返った。

「お生れなさいました!」

髪を乱してる女中の赤い顔が、廊下の入口から一寸覗いてすぐに消えた。

彼は機械的に立ち上った。非常に勇気がいるような気がして自ら自分を励ましながら、半ば捨鉢に秋子の室へはいって行った。消毒薬の匂いがぷんと鼻にきた。散らかった室の中の有様が一度に眼へ飛び込んできて、何にもはっきり見て取れなかった。両の拳を握りしめたまま、秋子の枕頭と思われるあたりに坐った。