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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

線上閱讀豊島 与志雄《幻の彼方(まぼろしのかなた)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。

N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 頁

青空文庫

と竜子は云った。「お坊ちゃまが可愛くないのでございましょうか。」

何のことだかよく分らないので、その方を見返すと、竜子の真剣な眼付に打たれた。彼はぎくりとした。

「私奥様から、坊やのことを頼むとくれぐれも云われておりますし、それに、自分の児は他人にやってしまって、お坊ちゃまが何だか自分の児のような気がして、可愛ゆくてお可哀そうで、離れられませんけれど、いろいろ考えますと、やはりお暇を頂いた方が宜しいようでございますから……。」

ゆっくりした言葉であったが、その調子が上ずっていて、いつもの彼女ではなかった。彼はじっとその顔を見つめてやった。彼女は口を噤んだ。

「嘘だ。」と彼は叫んだ。「お前は僕に意見をするつもりなんだろう。」

彼女は顔色を変えた。

「何を仰言いますの。」

「そうだ、僕に殴られたのが口惜しいんだろう。」

「いいえ。」きっぱり答えておいて、それから俄に彼女は身を震わした。「恐いんでございます。恐くって……恐くって……。」

彼は息をつめた。ぞっとした。障子の硝子に映ってる電燈の影を見つめてると、眼の中が熱くなってきた。涙が眼瞼を溢れた。それに自ら気付くと、涙が後から後から湧いてきた。