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しほんたいへいき
私本太平記(五)
吉川 英治
Read 私本太平記(五) (しほんたいへいき) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 252,330 characters · 505 screens
義貞は、何へともなく、反撥をおぼえた。思い上がった主顔を目に見るような気がされてくる。だが、ただ晩涼の川風と、庭の蛍だけは、いささか、それをなぐさめるに足るものだった。
「お。……」
ちょっと、義貞は、居ずまいを直した。――廊の間を通って、そこへ来た者があったからだった。しかし、高氏ではなかった。どこかで見たような尼とは思ったが、いわれるまでは、気づかなかった。
「まことに、お久しゅうございました」
「ほうっ、草心尼だの」
「はや、お忘れかと思いましたが」
「なんの、尼前を忘れようか。もう十年も会わなんだであろ。そうだ、国元の世良田で会ったきりだったな。……それにしては変っていない」
「あなたさまも」
「ま。意外な所で会ったものよの。して、いつから都に、いやここには?」
こう訊きながら、義貞は、十年前の一夜――世良田の館の桜吹雪をとつぜん胸に泛かべていた。そして自分の犯しかけた――思い出したくない古傷に――ふと、心の灯を吹かれて、墨のような黒い煤の回顧に落ちてしまった。
変っていない。――十年前のとおりだと、義貞も目をみはって言ったくらいに。
けれどその草心尼の清楚な美しさも、年とすれば、もう四十路にとどいていたはずである。