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われはうたえども やぶれかぶれ
蜜のあわれ・われはうたえども やぶれかぶれ
室生 犀星
Read 蜜のあわれ・われはうたえども やぶれかぶれ (われはうたえども やぶれかぶれ) by 室生 犀星 (むろうさいせい) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 45,726 characters · 90 screens
たと言われると、私はこの前なんて今日初めていらっしったくせにと問い返す程の記憶力の喪失が再びはげしかった。その証拠には見舞客がどういう服装であったかも不明で、只、顔ばかりが茫やりと客の椅子の上に見えるばかりであった。毎日のことなので副室との間から這入って来る客の顔をみると、ぎょっとして瞬きのない一瞥のあいだにそれが誰であるかを見定めようとしていた。苦痛は視覚をさまたげる、人間違いばかりしているので変な眼つきをするようになったのである。
坐っている苦痛は歩くことでらくになれた。地下室までエレベーターで降りると、私は霊安室の前まで行き、霊安室というからには何処かいんさんな景情であろうと思ったが、締った扉の中は見えないが普通の病室と変りがなかった。それが変って見えるというのは私の方に無理をした考えを持つからだと思った。その霊安室と背中合せに洗濯物にアイロンを当てる工場の大きさくらいある、洗濯屋さんの仕事場があった。医師の白い上着や百五十人もいる看護婦の白衣や作業服が、真白にかがやいて紙のように緻密にアイロンが当てられていた。ここにはお隣の霊安室の死の気はいさえない、死もアイロンで白く清められている感じであった。