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あごじゅうろうとりものちょう
顎十郎捕物帳
久生 十蘭
Read 顎十郎捕物帳 (あごじゅうろうとりものちょう) by 久生 十蘭 (ひさおじゅうらん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 13,604 characters · 28 screens
馬の尻尾
「はて、いい天気だの」
紙魚くいだらけの古帳面を、部屋いっぱいにとりちらしたなかで、乾割れた、蠅のくそだらけの床柱に凭れ、ふところから手の先だけを出し、馬鹿長い顎の先をつまみながら、のんびりと空を見あげている。
ぼろ畳の上に、もったいないような陽ざしがいっぱいにさしこみ、物干のおしめに陽炎がたっている。
あすは雛の節句で、十軒店や人形町の雛市はさぞたいへんな人出だろうが、本郷弓町の、ここら、めくら長屋では節句だとて一向にかわりもない。
露路奥の浪人ものは、縁へ出て、片襷で傘の下張りにせいを出し、となりの隠居は歯ぬけ謡。井戸端では、摺鉢の蜆ッ貝をゆする音がざくざく。
「……どうやら、今日の昼食も蜆汁になりそうだの。……いくら蜆が春の季題でも、こう、たてつづけではふせぎがつかねえ……ひとつ、また叔父のところへ出かけて、小遣にありついてくべえか。……中洲の四季庵にごぶさたしてから、もう、久しくなる」
と、ぼやきながら、煙管で煙草盆をひきよせ、五匁玉の粉ばかりになったのを雁首ですくいあげて、悠長に煙をふきはじめる。
北番所の例繰方で、奉行の下にいて刑律や判例をしらべる役だが、ろくろく出勤もせず、番所から持ち出した例帳や捕物控などを読みちらしたり、うっそりと顎を撫でたりして日をくらしている。