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なるとひちょう
鳴門秘帖(三)
吉川 英治
Read 鳴門秘帖(三) (なるとひちょう) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 261,216 characters · 521 screens
「剣山は……まだ?」
お綱はそういう言葉を、時折、大勘へくり返していた。
「まだ見えません」
…………。
「剣山は?」
「まだです」
清澄な空気、耳なれぬ禽の声、森々と深まさる山また山。行けども山である、行けども山である。
沢を下り、岨をめぐり、わずかな山村を眺め、また奥へ奥へと歩みつづける。たまたま逢う樵夫や部落の人も、遍路姿のふたりに、何の怪しみも持たなかった。
「あれだ!」
力のこもった声で、大勘がこう指さした。
四人は、星越峠を踏んでいた。
「えっ、剣山?」
「あれが剣山です。次郎笈と矢神丸の間から、肩を張りだしている山がそうです」
「アア、あの……」と、お綱も大勘が指さすところを指さした。
弦之丞も黙然と、ふたりの見まもる山を見つめている。お綱は何かの感慨に衝たれて、白雲の流るる行く手に佇立した。
アア、あれが剣山か――。
そう思って見た山は、父の姿を仰ぐのと同じ感銘を与えた。まだ見ぬ父の姿は、剣山を見て逢ったと等しい心地がした。
動こうともせずじっと山と直面しているうちに、お綱の目がしらは、涙でいッぱいになってきた。涙で山が見えなくなった。
(お父さん! 生れてからまだ顔を知らないお父さん! お綱はここまで来ているんですよ! あなたに会いに、あなたが生涯をかけた仕事を活かしに)