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なるとひちょう
鳴門秘帖(三)
吉川 英治
Read 鳴門秘帖(三) (なるとひちょう) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 261,216 characters · 521 screens
「なに、これでよかろう」
と、かれは背中を向けたまま、無造作に、舟のアカ汲を取って、手を伸ばし、川の水を掬って、お綱の側へ置いた。
「それに鏡も」
「いや、鏡は要るまい」
「何もかも、ないものだらけでござります。ちょうど、あの……新世帯みたいに」
「流々転住の舟住居。ここしばらくは、思いがけない、気楽な境界になったもの……」と弦之丞も、ほほ笑まれる。
四、五枚の苫をはねてあるので、細い眉形の月と星明りが、お綱の手元をほのかに見せた。
弦之丞が汲んだアカ柄杓の水に黄楊の鬢櫛を濡らして、
「あの……」
まぶしそうに、横顔を覗きこんで、
「月代は、このままにしておきますか」
「浪々して以来の置物、同じ剃るなら、大望を遂げての後、サッパリと落したい」
「では、たぶさだけを」
「何かに結びなおしてくれ」
「はい」
女房のような返辞の為方。
お綱は、自分の声に動悸を打ったが、弦之丞は無関心に、五分月代をかろく梳く櫛の歯ざわりに、こころよげな目をふさぐ。
「元結を切りますから、笄でもお貸し下さいまし」
弦之丞は、無言で、刀の小柄を抜いて渡す。根を切って、それを返し、ふさふさとした黒髪を幾たびも梳いて、女用の松金油は、やや香りが高すぎるが、それを塗って、形よく銀杏に折り曲げ、キリキリッと元結を巻いて、根締めの唾を舐めてつける。