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よみから
黄泉から
久生 十蘭
Read 黄泉から (よみから) by 久生 十蘭 (ひさおじゅうらん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 10,167 characters · 21 screens
一
一
「九時二十分……」
新橋のホームで、魚返光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
きょうはいそがしい日だった。十時にセザンヌの「静物」を見にくる客が二組。十一時には……夫人が名匠ルシアン・グレエヴの首飾のコレクトを持ってくることになっている。午後二時には……家の家具の売立。四時には……。詩も音楽もわかり、美術雑誌から美術批評の寄稿を依頼されたりする光太郎のような一流の仲買人にとっては、戦争が勝てば勝ったように、負ければまた負けたように、商談と商機にことを欠くことはない。
こんどの欧州最後の引揚げには光太郎はうまくやった。みな危険な金剛石を買い漁って、益もない物換えにうき身をやつしているとき、光太郎はモネ、ルノアール、ルッソオ、フラゴナール、三つのフェルメールの作品を含むすばらしいコレクションを糶りおとし、持っていた金を安全に始末してしまった。
仲介業者の先見と機才は、倦怠と夢想から湧きでる詩人の霊感によく似ていて、この仕事に憑かれると抜け目なく立ち廻ることだけが人生の味になり、それ以外のことはすべて色の褪せた花としか見えなくなる。
光太郎がホームに立ってきょうの仕事の味利きをしていると、鸚鵡の冠毛のように白髪をそそけさせた六十歳ばかりの西洋人が、西口の階段からせかせかとあがってきた。