Japanische Klassiker mit Furigana
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いちのくらさわ
一の倉沢
久生 十蘭
Lesen Sie 一の倉沢 (いちのくらさわ) von 久生 十蘭 (ひさおじゅうらん) auf Japanisch mit Furigana. JLPT N2. Tippen Sie auf ein Wort für die Bedeutung.
N2 · Fortgeschritten · moderne Kanji und Kana · 6.237 Zeichen · 13 Bildschirme
身の毛のよだつような放れ業だった。意識の反射がもう一秒遅れたら、三百米も下の沢へ逆落しになっていたところだった。
「う、う、う」
身震いといっしょに、臓腑を吐きだすような深刻な吐息をついたが、それで助かったというわけでもなかった。菱苅は足場も支えもない垂直な削岩壁に額をおしつけ、風雪が磨きだしたスベスベの岩の出っぱりに両手をかけてぶらさがっている。そろそろと足がかりになるものを探して見たが、むなしく空を泳ぐだけでなんの手ごたえもない。無益な動作に疲れ、両足をダラリと垂らしたときには、絶体絶命だというギリギリの現実感が胸の奥を鋭くさしつらぬいた。
懸垂することだけに全神経を集中するつもりで、眼をとじたが、そうしてもいられなくなってまた眼をあけた。岩に獅噛みついた瞬間、チラと腕時計を見た。そのとき十七時三十分だったが、いま見ると三十二分だった。悠久とも思われる長い時間だったのに、たった二分しかたっていない。
「とてもとても……」
心の隅に虚無的な感情が萌えだし、生も死も、どうでもよくなった。
「手を放してしまえ。どのみち、おなじことなんだ」
十七時三十七分……やっと五分。