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いしがおごる

いしが奢る

山本 周五郎

「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版、1952(昭和27)年10月19日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,304 字 · 45 页

青空文庫

「きっとなにかわけがあるんだわ」

「これはただでは済ませません」お春という女が咳ばらいをして云った、「衆人の前でそういう振舞いをするからには」

「ええ、いいわ、いしが奢るわ」

顔を掩った女がそう叫び、袂を放して、女たちのほうへ向き直った。

「今日はいしが奢るから、みんな好きな註文をして頂戴、今日は一世一代よ」

女たちはきゃあと声をあげ、手を叩いた。保馬もわれ知らず苦笑した。はじめて気がついたのだが、それはいつか掬水亭で誤って彼を水へ突落したあの娘であった。

「この望湖庵の養女のいしという者ですが」と手代の弥吉が云った、「本信さま御存じなのでございますか」

うんと保馬が頷くと、娘はこっちへ向いて、顔を赤くしながらおじぎをした。

「なまいきなことを云ってはいけない」保馬が云った、「客がいるのに奢るということがあるか、僭上というものだぞ」

いしは吃驚したような眼で保馬を見て、はいと云って、こくんと少年のように頷いた。

「済みません、取消します、堪忍して下さい」

保馬はてれて赤くなった。そんなつまらないことを云った自分にてれたのである。彼は少なからずあがりぎみで、持っていた盃をいしにさした。