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いしがおごる

いしが奢る

山本 周五郎

「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版、1952(昭和27)年10月19日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,304 字 · 45 页

青空文庫

七

が死ぬほど好きなんです、けれどもこの胸の、ここのところに」

いしは自分の胸を押えた。

「もう一人さきにはいっていた人がありました、今でもその人は、ここにいるんです、その人はどいてくれないし、いしの胸はこんなに小さくって、こんなに……保馬さま」がまんがきれたようにいしは云った、「どうして貴方はもっと早く来て下さいませんでしたの」

日が傾いて、いっとき庭がしらじらと明るくなった。土地が高いためだろう、風がかなり強く松の枝をふき鳴らしていた。

――いしは眼と頬の涙をぬぐい、銚子を代えるために立っていった。

七

戻って来たいしは銚子を二つ持っていた。その一つを自分の脇に置き、もう一つの銚子で保馬に酌をすると、

「覚えていらっしゃるでしょう」

と云って、袂から扇子を出して彼に渡した。それは骨と紙が剥がれていて、ちょっとまよったが、もちろんすぐにわかった。

「こんな物を取って置いたのか」

「一生持っているつもりでした」

「――返すというのはこれだね」

「持っているとみれんが残りますから」

保馬はじっといしの眼を見た。

「どうして今日返すんだ」

いしは自分の脇に置いた銚子を取り、自分の盃にそれを注いで、保馬を見返しながら答えようとした。