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いしがおごる

いしが奢る

山本 周五郎

「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版、1952(昭和27)年10月19日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,304 字 · 45 页

青空文庫

そう云いかけていしは自分でふきだした。

「つい力がはいり過ぎて、よろめいちゃって」

そう云いながら身を跼めて笑いだした。そしてとつぜん保馬の膝へ俯伏したと思うと、笑いがそのまま泣き声に変り、背をふるわせて泣きはじめた。保馬は黙って、片方の手でその背中を撫でてやった。いしはなにかを訴えたいようであった。保馬にも云ってやりたいことがあった。しかしどちらも、口にだしてはなにも云わなかった。泣き声はしだいに鎮まったが、そうしていることがいかにも楽しいようすで、かすかにしゃくりあげながら、なお暫くのあいだ、いしは膝に凭れたままでいた。

「これで願がかないましたわ」

やがて起き直ったいしは、袂で涙を拭きながら微笑した。

「いちど思いきり泣いてみたかったんです、なんにもわけはないんですけれど、……これでさっぱりしましたわ」それからいつもの明朗な表情で保馬を見た、「人間って悲しくなくっても、ときどき泣かないと躯に悪いんじゃないでしょうか」

保馬は黙ったまま、劬わるように頷いた。

その夜(だけではないが)宿所へ帰った保馬は、仲田や堀たちと夜半過ぎまで調べものをした。二人の分担していた仕事は、この六十余日のあいだにめざましく進んでいた。