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いしがおごる
いしが奢る
山本 周五郎
「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版、1952(昭和27)年10月19日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,304 字 · 45 页
「馬でも申付けましょうか」
仲田もからかうように云った。
「それはいい、すぐ云いつけてくれ」保馬は手紙を巻きながら立った、「久しく籠居したから、馬でとばすのは思いつきだ、頼むよ」
「冗談から馬ですな、やれやれ」
仲田は口をすぼめて苦笑した。よく晴れた午後で、海からしきりに風がふいていた。保馬はその風のなかを爽快にとばしていった。望湖庵へ登る山道では、落葉が雨のように舞っていた。いしは珍しく濃い化粧で、紫色の地にぼかしで千草を染めた縮緬の小袖に、薄茶色の綾に菊の模様の帯をしめていた。濃い白粉のためか、顔が硬ばっているようにみえるし、紅をさした唇はむしろ暗い感じであった。
「嫁にでもゆくようだな」保馬は眩しそうに眼をそらした、「まるで人が違ったようにみえる」
「お気に召さないでしょうか」
保馬は微笑しながら、「いいよ」というふうに頷いた。いしは嬉しそうに肩をすくめた。
「今日はお願いがありますの、一生にいちどのお願い」廊下の途中で、いしは保馬をおがんで云った、「いちどだけでようございますからいしに奢らせて頂戴」
「――どうするんだ」
「二人だけでゆっくりしたいんです、今日はでかけてみんな留守なんです、ねえ、お願いですからうんと仰しゃって」