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ボロやのしゅんじゅう

ボロ家の春秋

梅崎 春生

梅崎春生『ボロ家の春秋』。同一底本的分册已合并为一书。收入:ボロ家の春秋、Sの背中、黄色い日日、記憶、蜆、庭の眺め、凡人凡語。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,411 字 · 263 页

青空文庫

ところが背中はのっぺらぼうで、中心が全然ない」

猿沢夫人が傍でくすくすと笑いました。そこで蟹江は追い討ちをかけるように、言葉をつぎました。

「もっとも人によっては、あるかも知れないね。たとえばホクロみたいな――」

「そりゃあるかも知れないね」と猿沢は退屈そうに小さく欠伸をしました。「それはそうと、君は近頃すこし痩せたようだね。やはり自炊では、充分栄養がとれないのかな」

もう一息というところで、話題がそっちに行ってしまったものですから、背中のことはお流れになってしまいました。蟹江はすこし残念でした。あの猿沢夫人のくすくす笑いはどうも意味ありげだったな。ひょっとすると、亭主の痣を思い浮べたんじゃないかな、などと思ったりしたのです。

この夜あたりをさかいとして、蟹江の生きている情熱は、はっきりとひとつの形の目標にそそがれるようになったようです。つまり、猿沢の背中に痣があるかないか、その一点なのでした。人間の生活の情熱というものは、あちこちに分散する傾向よりも、ひとつの核にまとまりたがる傾向が、強いのではないでしょうか。たとえば真珠貝の体液が、なにか異物をとらえて、真珠玉を形づくりたがるような具合です。