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ひとつのできごと

一つの出来事

宮本 百合子

「大観」1919(大正8)年11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,024 字 · 23 页

青空文庫

虫のお引越は決して侮蔑を含んだ言葉ではない。虫の飛ぶように素直に、虫のように安んじて動いた素早さの愛称である。

私共にとりて唯一の心配は、来週から誰に洗濯をしてもらったら好いだろうということであった。

二

急な引越しをして姿を消したお婆さんは、ミセス・ロッスといった。

たぶんアメリカ生れの家族であろう、比較的悠然と構えているお爺さんを、いつも急き立てて働いているミセス・ロッスは、ずいぶんの遣り手でありながら割合に上品な、すれない気分の人らしかった。

二人の子供達はいつもこざっぱりとした着物を着せられて、上の女の子などは、父親と釣合わないほど、またアメリカの子供らしくないほど、内気な、笑わない性質である。いつも灰色の小猫が、背中を丸めて蹲(うずくま)っているベランダに、真白い着物を着て、紫のリボンで蒼白い額を捲いて坐っている。

少しきまりが悪いと、頬ではなく、その日に焼けた頸を所斑に赤らめる母親は、独りの娘を珠のように労(いたわ)って、夕方涼風が立つと、並木の下をゆるゆると威厳をもって散歩する小娘の傍に引添って、満足したお伴のように随(つ)いて行くし、私にとっては、どうしても悪意の持ちようのない善良な愛すべき一家であったのである。