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ひとつのめばえ

一つの芽生

宮本 百合子

「新日本」1918(大正7)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,627 字 · 29 页

青空文庫

複雑な高低を持ったたくさんの点は、私がいつか一生懸命に練習したことのあるモツアルトのソナータの数節を思い出さずにはいられなかったほど、律動的なものであった。

高音が急速な優しみのある旋律で旋行して行くにつれて、全く、八度の重々しい低音の、男性的な協和音程が息もつかせず強調して行く。そして、やがてd'の夢幻的な顫動(せんどう)のうちに落着く、あの響を想起したとき、私は命の、あまりの麗(うる)わしさに心を撃たれた。

淡い秋霧に包まれた桐や棕櫚(しゅろ)が、閉めた窓々を透して流れ出る灯に、柔かな輪郭(りんかく)を浮かせている静かな、ぬれた病院の中庭を眺めながら、自分は魂のささやかな共鳴りを感じた。大変歌いたい心持になったけれども、適当な歌詞も声も持たない自分は、ただ心のうちで「限りなく麗わしきいのちよ!」と讃えることほか知らなかった。

腰髄刺穿によって期せられていた、僥倖(ぎょうこう)の百万分の一ほどの微かな望みも絶えて、十九日の夜半から二十日の黎明にかけて、脈搏はグングンと増加して、六時頃熱は七度八分なのに対して、脈は百二十という差を現わした。

そして、最後の徴(しるし)である喘鳴(ぜんめい)が起り始めたのである。