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いまどしんじゅう

今戸心中

広津 柳浪

「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页

青空文庫

吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏ッて離れぬ。

「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所で叱られますよ」

「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴けておくれ」

白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。

「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴が来てるんじゃありませんか」

「善さんもお客だッて。誰がお客でないと言ッたんだよ。当然なことをお言いでない」と、吉里は障子を開けて室内に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。

「どうしたの。また疳癪を発しておいでだね」

次の間の長火鉢で燗をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼のお職女郎。娼妓じみないでどこにか品格もあり、吉里には二三歳の年増である。

「だッて、あんまりうるさいんだもの」

「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺せた。

「察しておくれよ」と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。

張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。