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きずあとのはいけい

傷痕の背景

豊島 与志雄

「中央公論」1929(昭和4)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,022 字 · 38 页

青空文庫

大きな拳が、有吉の鼻の頭をこすって、ぬっと、も一度前に出た――極度の侮蔑で卓子の上に、尖った三角ナイフが光っていた。それを掴んで、杉本の顔に皮肉な笑いが上って、どうだ……といった調子で、つきつけたのが、手首をぐっと引かれた。はずみをくって、よろけながら、握りしめた手先の力が籠って、全身の重みがかかった……。

杉本は、前のめりに、ぱったりと倒れた。

瞬間の出来事だった。

次の瞬間、杉本は飛び起きて、顔色を変えて、震える手にナイフを握りしめていた。その腕が、人の手に押えられた。眼の前に有吉はつっ立って、頬に微笑の影を湛えていた。が、その右の大腿部の、軍服が裂けて、血が……。

「ば、ばかなことを! 気をつけろ!」

そして彼は、一歩よろめいて、卓子につかまった。顔をしかめた。眼を落して、腿の血を見た。

「出て行け!」

杉本は、歯をくいしばって、憎悪に燃ゆる眼を、相手の眼に据えた。が有吉の眼は、自若としてそれを迎えた。蔑すんだ色が動いた。

「帰してやれ。」

命令的な、逆う余地のない語気だった。杉本の腕を捉えてる手は放された。杉本は、ナイフを取落し、首垂れて、歩み去った。