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ふるいど
古井戸
豊島 与志雄
「中央公論」1925(大正14)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,433 字 · 43 页
彼は室の中をぐるぐる歩き廻りながら、我を忘れかけることが多かった。
十
彼は騒ぎの夜以来、松木とは一言も言葉を交えなかった。顔を合せることさえ出来るだけ避けた。房子とも余り口を利かなかった。房子の方も変に黙っていた。
松木は昼間時々帰ってきては、やはり庭の井戸端で背中の汗を拭うことがあった。汗深いため残暑になやんでるらしかった。
そういう松木の姿を見ることが、彼には一番堪え難かった。見まいとしても、二階からすぐに見下せた。彼はわざと障子を閉め切って、反対の隅の方に寝そべった。それでも、車井戸の音ははっきり聞えてきた。
俺は何でこんなに焦燥してるんだ、と自ら尋ねかけても、はっきりした答は得られなかった。
松木が光子の父であることがいけないのか……大悪人でも善人でもなく、ただ小策ばかりの没感情的や凡人であることがいけないのか……いや、彼の存在そのものが彼には堪え難かった。
そういう憎しみはどこから来るか分らないものだった。口論をしたり殴合いをしたりした後の憎しみならば、まだどうとでもなるが、面と向っては口が利けない根本的の憎悪は、どうにも出来なかった。