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きつえんよんじゅうねん
喫煙四十年
寺田 寅彦
「中央公論」1934(昭和9)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,500 字 · 17 页
煙草の効能の一つは憂苦を忘れさせ癇癪の虫を殺すにあるであろうが、それには巻煙草よりはやはり煙管の方がよい。昔自分に親しかったある老人は機嫌が悪いと何とも云えない変な咳払いをしては、煙管の雁首で灰吹をなぐり付けるので、灰吹の頂上がいつも不規則な日本アルプス形の凸凹を示していた。そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁たくひしゃげていたようである。いくら歯が丈夫だとしてもあんなに噛みひしゃぐには口金の銀が相当薄いものでなければならなかったと考えられる。それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげで、ついぞ家族を殴打したこともなく、また他の器物を打毀すこともなく温厚篤実な有徳の紳士として生涯を終ったようである。ところが今の巻煙草では灰皿を叩いても手ごたえが弱く、紙の吸口を噛んでみても歯ごたえがない。尤も映画などで見ると今の人はそういう場合に吸殻で錐のように灰皿の真中をぎゅうぎゅう揉んだり、また吸殻をやけくそに床に叩きつけたりするようである。あれでも何もしないよりはましであろう。
自分は近来は煙草で癇癪をまぎらす必要を感じるような事は稀であるが、しかしこの頃煙草の有難味を今更につくづく感じるのは、自分があまり興味のない何々会議といったような物々しい席上で憂鬱になってしまった時である。