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うもれたにほん

埋もれた日本

和辻 哲郎

――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,399 字 · 43 页

青空文庫

そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。

慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康の新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺戟であったと思われる。

秀吉がキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年(一五九三)に、当時五十二歳であった家康は、藤原惺窩を呼んで『貞観政要』の講義をきいた。五十八歳の秀吉が征明の計画で手を焼いているのを静かにながめながら、家康は、馬上をもって天下を治め得ざるゆえんを考えていたのである。だから五年後に家康が政権を握ったときには、彼は、秀吉が征明の役を起こした時と同じ年齢であったが、秀吉とは全然逆に、学問の奨励をもっておのれの時代を始めたのである。