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ゆうもやのなか
夕靄の中
山本 周五郎
「キング」大日本雄辯會講談社、1952(昭和27)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,522 字 · 19 页
両手で肩を抱き緊め、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、現実のように甦ってくる。おつやの父親は「橋場の七兵衛」という、かなり名を売った博奕打である。こっちは仕立職からぐれて、自分ではいっぱしのやくざ気取りでいた。……おつやは一人娘、想いあって、ゆくすえの約束までしたが、橋場一家にとっては、彼などは雑魚の一尾にすぎなかった。
――逃げるのはいいが苦労するぜ。
――いっしょなら、どんな苦労だって。
そして牒し合せたがぬけ出すところをみつかって、取巻かれた。
――半さん、死なないでお呉れ。
捉まったおつやの叫びが聞えた。眼の昏むような気持だった。夢中で短刀を抜き、とびかかって来た金次を、刺した。左の脇腹だった。そのぶきみな手ごたえに、胆が消えた。
――生きてて呉れ、おつや。
喚きながら逃げた。
桐生という処で一年半仕立職をしながら、おつやを呼びよせる折を待った。
――死なないでお呉れ。喉を絞るような女の絶叫が、いつも耳の奥にあった。死なないでお呉れ、半さん、死なないで。
月に一度ずつ、江戸へゆく機屋の手代に、橋場のようすを探って貰った。