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よあけまえ
夜明け前
島崎 藤村
01 第一部上
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页
先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝の心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、攘夷か。これほど矛盾を含んだ言葉もない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実に頑執妄排であり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らの内部にあるものを護り育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。
牡丹屋の裏二階からは、廊下の廂に近く枝をさし延べている椎の樹の梢が見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。
「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた。」
「さぞ、御退屈さまでございましょう。」
そう言って、牡丹屋の年とった亭主はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆は古風な手さげのついたのを出し、大きな菓子鉢には扇子形の箸入れを添えて出すような宿だ。