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よあけまえ
夜明け前
島崎 藤村
01 第一部上
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页
父は能筆で、お家流をよく書き、字体も婉麗なものであったが、病後は小さな字を書くこともできなかった。まるで七つか八つの子供の書くような字を書いた。この父の言葉に、おかげで自分も治療の効によって半身の自由を得た、幸いに食事も便事も人手をわずらわさないで済む、しかし箒と筆とこの二つを執ることの不自由なのは実に悲しいと。この嘆息を聞くたびに、半蔵は胸を刺される思いをして、あの友の香蔵のような思い切った行動は執れなかった。
八畳と三畳の二部屋から成る味噌納屋の二階が吉左衛門の隠居所にあててある。そこに父は好きな美濃派の俳書や蜷川流の将棋の本なぞをひろげ、それを朝夕の友として、わずかに病後をなぐさめている。中風患者の常として、とかくはかばかしい治療の方法がない。他目にももどかしいほど回復もおそかった。
「お民、おれは王滝まで出かけて行って来るぜ。あとのことは、清助さんにもよく頼んで置いて行く。」
と半蔵は妻に言って、父の病を祷るために御嶽神社への参籠を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。