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だいぼさつとうげ
大菩薩峠
中里 介山
33 不破の関の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 86,467 字 · 168 页
兵馬の囁きを、芸妓の福松は委細諒承してしまっての返事がこれです。
「では、頼みます」
「まあ、よろしうございます、もうこんなに遅いのですから、お泊りあそばしていらっしゃいましな。あら、わたしのところじゃおいや……」
「そうしてはおられません」
兵馬はこう言って、御神燈の下を辞してしまいました。
うつらうつらと、宮川の岸を歩きつつある兵馬の心頭に残っているのが、あの脂粉の匂いです。目先にちらついているのは、御神燈の光へ横面を突き出して、兵馬の方へ耳を寄せたあの頬っぺたの肉づきと、それから島田の乱れたのです。
兵馬は、なんだかうなされるような気になりました。吉原で魂を躍動させたような血が、どうやら巡り来って自分を圧えつけるような気持がしただけではありません、「泊っておいでなさいましな、あら、わたしのところじゃおいや……」と言ったのが、なんだか耳の底に残っていてならぬ。
泊って行けと言われたなら、泊って来たらよかったじゃないか――そんなにも兵馬は考えました。
だが、宿所にはお雪ちゃんが待っている。待っていないまでも、用向以外に人の家へ寝泊りして来るいわれはない。