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おばすて

姨捨

堀 辰雄

「文藝春秋」1940(昭和15)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,351 字 · 20 页

青空文庫

などと珍らしそうに男は女の方を向いて云って、いつまでも気もち好さそうに話し込み、なかなか其処を立ち上がりそうにもなかった。

星の光さえ見えない位に真っ暗な晩で、外にはときどき時雨らしいものが、さっと木の葉にふりかかる音さえ微かにし出していた。「こういう晩もなかなか好いものですね。」男はそう云いさして、微かに木の葉にかかる時雨の音に耳を傾けながら、急に何か考え出したように沈黙していたが、それから徐かにこんな事を語り出した。

「どうした訳ですか、私は今ふいと十七年ほど前の或晩の事を思い出しておりました。それは私が斎宮の御裳著の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に下っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又円融院の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁み入って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。