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いえ
家
島崎 藤村
02 (下)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 141,411 字 · 285 页
と老婆は腰を延ばして、「私も、何か頂きたくて、これまで御世話を致したのじゃ御座いません。奥様がこうして御一人でいらっしゃるのが、私は心配で堪りません……御留守居は最早沢山で御座いますよ……」
この奉公人は、リョウマチ気のある手を揉み揉み言っていた。
豊世は水に近い空の見える方へ行った。川蒸汽や荷舟は相変らず隅田川を往復しつつあった。玻璃障子の直ぐ外にある植込には、萩や薔薇などを石垣の外までも這わせて、正太がよく眼を悦ばした場所である。豊世は、その玻璃障子も他の造作と一緒に売ろうと考えた。
長く手入もせずに置いた草木は、そこに柔かな芽を吹いていた。それを見ると、幾年か前の春が彼女の胸に浮んだ。橋本の姑が寝物語に、男の機嫌の取りようなぞを聞かされて、それにまた初心らしく耳傾けたことは、夢のように成った。相場師の妻らしく粧おうとして、自然と彼女は風俗をもつくった。女に出来ることで、放縦な夫の心を悦ばすようなことは、何でもした。それほど夫の心まかせに成ったのも、何卒して夫の愛を一身に集めたいと思ったからで……夫の胸に巣くう可恐しい病毒、それが果して夫の言うように、精神の過労から発したのか、それとも夫が遊蕩の報酬か、殆んど彼女には差別のつかないものに思われた。