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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

上見ぬ鷲の翔らん天ぎわから地上へかけて雲の帳は相変らずかけ垂れていたが、深まり来るたそがれの色にあらがうように帳の色は明るく薄れ行きつつある。それにつれて帳の奥の福慈岳の姿はいまや山の祖神の前に全積を示しかけて来た。祖神の翁は片唾を呑んだ。

およそ山を見るほどのものの胸には山の高さに対して心積りというものがある筈である。見るほどのものはあらかじめの心積りの高さを率て実山に宛嵌め眺めるのであった。実山の高さが見るものの心積りの高さにかなりの相違があっても、全然見るものの心積りを根底から破却し去らない限り、そこに観念なるものと実在なるものと比較し得られる桟はしがあってその上に立ち見るものをして両端の距りを心測して愕きの妙味を味い得しめるよすががある。ここにもし実在が観念と別な世界ほどの在りようで比較の桟はしを徹し去らるるときわれ等の心路は何によって味覚に達すべき。かかるとき愕きもない平凡もない。強いていおうならば北斗南面して看るという唐ようの古語にでも表現を譲るより仕方はあるまい。

さて、山の祖神の老翁は、雲の帳に透く福慈岳の全積を、麓の方から目途を攀らして頂へと計って行った。