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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

「駄目々々。偉くなることなんて。あたしに、さっぱりそんな慾はなくってよ」

捨てるともなく誇りと励みに背中を向けかけると、ふた親が説く、山の祖神の偉さというものより部落の間の噂に遺っている山の祖神の偉からざる方面のことが女には懐しまれて来た。

祖父さまは山中の猪の相撲場で、猪の仔の瓜わらべと遊び戯れているとき、猪の親に襲われ、牙にかかってお果てなされた。祖父さまは娘の福慈の神のつれない待遇を恨まれ、娘の神に詛いをかけたのみか、執着は、峯のしら雪に消え痕ともなって自形の人型をとどめられた。それは稚気と、未練であるでもあろう。それゆえ、ふた親は自分に秘して語らない。しかし部落の土民たちがこれを語るときに現す、山の祖神に対する親しげな面貌よ。稚気と未練に含まれて、そこに何かあるに違いない。

女は年頃になった。相変らずこの界隈の褒めものの娘であり、ふた親の自慢娘ではあった。女はもはや山の鞍部へ上って伯母の山の姿を眺め見ることはせず、理想なるものを持たず、ただその日その日を甲斐々々しく働いた。雁金が寒く来鳴き、新治の鳥羽の淡海も秋風に白浪立つ頃ともなれば、女は自分が先に立ち奴たちを率いて、裾わの田井に秋田を刈った。