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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

「私奥様に代って、坊ちゃまを立派にお育て致しますわ。」と彼女は云った。

そして実際、少しの手落もなく順一を守り育てながら、彼女は家事万端のことを取締ってくれた。日々の食事のことから、順造の身辺の世話までやいた。襯衣が少し汚れるとすぐに取代えさした。外出の時には新らしい足袋を揃えておいてくれた。外で傘を取違えてくると、仕様がないと小言を云った。

「ほんとに懶惰でいらっしゃいますね。お服装にも少しは気をつけなさらなければいけませんよ。……ふさいでばかりいらっしゃらないで、気晴しにお出かけなさいましよ。……香奠のお返しのことも、そろそろお仕度をなさらなければなりませんでしょう。……炬燵のお布団が穢くなっていますから、新しくお作り致しましょうか。」

というようなことを、反り気味の薄い唇で、彼女はてきぱきと云ってのけた。

順造はそれらの世話のうちに包み込まれ、眼の前を塞いでる彼女の肉体を見守りながら、心では過ぎ去った影を追っていた。

カチン、カチン……と五六回くり返して、トン、トン、トン……と急な調子になった。その時彼は、もっと大きな釘でしっかりと棺の蓋を打付けてほしいと思った。