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こころのかわ

心の河

宮本 百合子

「改造」1924(大正13)年6月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,442 字 · 37 页

青空文庫

彼女は憐れに一心な顔付で良人につっかかって行った。

例によって、それは夕食後のことであった。さよがひとりでに黙り込み、卓子に眼を落してばかりいた故か、保夫は早めに書斎に引取った。彼女は暫く後に残って、女中に口を利いたが、軈て良人の後を追うように書斎に行った。六畳の部屋は、短い鍵の手の廊下で離れのように庭に突出ている。保夫は、正面の濡れ縁に向って机を据えていた。夜の、何か濃い液体のような闇は、冴えた電燈が煌々と漲る敷居際でぴたりと押し返されている。彼の後姿は、光を浴びる肩の辺をしろじろと、前方の闇に浮上って見えた。

さよは、静に机の傍に行った。保夫は、右手に青鉛筆を持ち、薄い仮綴じのものを読んでいる。――細かな横文字を無意味に眺め、さよは声をかけた。

「――おいそがしいの?」

保夫は、背を延し、パラパラと頁を翻した。

「そういうわけでもないが……何故?」

「…………」

さよは、夜気が身に迫るとでもいうように、単衣の袖を抱き合せた。保夫は、彼女の顔付を見、微かに表情を変えた。彼女は、藁半紙のようにごく粗末なパムフレットに目を据えたまま、思い込んだ調子で云い出した。