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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

これで死ぬのかしら……と私は不安になり初めた。そして、いや死ぬものか! という思いと、いや死ぬのだ! という思いとが、同じ強さで起ってきた。

私は自ら茫然としているうちに、ふと思いついて、この気持に落着をつけるために、事件の一切を書き誌してみようと決心した。そして殆んど寝食を忘れて書き続けてきた。すると、妙なことが起ってきた。

井ノ頭の翌朝、私は一種無批判な盲目的な心境に陥ったことがあるが、それと似寄って而も気分は全く異った心境に、私は次第に浮び上っていった。あの時は陥ったのであるが、こんどのは浮び上ったのである。無批判ではなくて一切の批判を絶した、盲目的ではなくて眼をじっと見開いた、昼でもなく夜でもない薄ら明りの、落着いた静かな空しい心境だった。何のために? ということがないと共に、なぜ? ということも一切なかった。そして心の奥から、そうだそうだ! という声が響いていた。何がそうだかは分らないが……と云うより寧ろ、何がそうだかは問題でなくて、ただ静かにそうだった。髪の毛一筋も埃一粒も揺がないで、ただ静かにそうだった。

斯くてあれかし!……ふとそんな文句が私の心に浮んだ。