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あるおとこのしゅき
或る男の手記
豊島 与志雄
「中央公論」1924(大正13)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页
途中で止ることもなく、面白い幻覚をみ続けながら、苦痛もなく徐々に死ぬことが出来る。女中は何処かに使に出しておけばよいし、俊子は私の方を見向きもしないから大丈夫だ……。
私は雨のしとしと降る中を出かけていって、もっと降れもっと降れという明るい気持で、新らしい石鹸と剃刀と白布とを買って来た。その白布を六七尺の長さに鋏で切った。猿股でなく褌を用いるのが私の気に入った。馬鹿に高価だと思いながら一番匂がいいと云われて買って来た石鹸は、見馴れない黒い真円いものだった。それも私の気に入った。よく切れるのをと云って買ってきた剃刀は、まだ本当に刃が立っていないらしかった。私は仕方なしに革砥ですっかり研ぎ上げた。そしてその三品を書棚の抽出にしまった。
所が、一切の準備が出来上ってから、これで俺は死ぬのかしら、本当に死ぬのかしら……という疑いが起ってきた。何しろ私はごく自由な晴々とした気持になっていた。松本と光子よ、君達は輝かしく生きるがいい、河野さんよ、あなたは金の力で勝手な真似をなさるがいい、俊子よ、お前は俺から解放されて自由な途を歩くがいい、子供等よ、お前達は力強く生長するがいい、其他私の知ってる人々よ、君達は健在であれ!……そう呼びかけたいような気に私はなっていた。