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りゃくだつせられたるおとこ
掠奪せられたる男
豊島 与志雄
「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页
凡てが彼の眼の前から消え失せてしまった。ただ闇澹たるものが彼の前に、測り知られぬ深さを以て展開された。それは単に動員もしくは戦争ではなかった。不可抗なる大なる運命の暴力であった。彼は既に秀子によって自己の主ではなくなっていた。そして今や大なる暴力の手によって更に奪い去られんとしているのであった。
彼はいきなり立ち上った。そして外に飛び出した。自分を縛めている陰闇なる鎖から逃れんとするかのように、彼はむやみと歩き出した。
或る電車通りの古本屋の前を通りかかると、店先に並べられた書物の上に小猫が一匹戯れていた。よく見ると、堆い書物の隙間に大きな蝶が一つ羽と足とで逃げ廻っていた。小猫は別にそれを取ろうとするでもなく、身体を横にしたり、とんぼ返りをしたりしてそれに戯れついていた。その戯れは何時までも続いた。山田の外に二三人の通行人が足を留めてそれを見ていた。そのうちに店の奥から小僧が出て来て、小猫を向うに抱えて行ってしまった。蝶の姿は何処へ行ったか分らなかった。
山田はそれを見ているうちにいい気持ちになった。何だか無性に嬉しくなった。そして小猫が連れ去られると、妙に身体が自由になると共に頭がぼんやりしてしまった。