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しんしょたいこうき
新書太閤記
吉川 英治
03 第三分冊
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 185,353 字 · 371 页
松波は、その機に、
「亀一のお稽古は、今日だけおゆるし下さいませ。まだ顔いろが蒼うござります。唇も腫れ上がって見えますれば」
「ム。……では連れて行け」
小六は、妻の手へ、槍と子とを預けたが、
「余り甘やかすな。また、良いことに思うて、書物ばかり与えるな」
と、いいつけた。
彼もそのまま書院のほうへ歩み出し、沓石へ草履を捨てかけた。――ところへまた、先刻の家人が、首を振りながら駈けて来て、
「お頭領、いよいよ不審な男です。どうしても立ち帰りません。のみか、いつの間にやら、脇門を通って、厩の方へ勝手に立ち入り、馬番や庭掃除の者などつかまえて、馴々しく雑談などしております」
「抓み出せ。織田家の廻し者など、なぜ容赦しておくか」
「いや仰っしゃるまでもなく、武士部屋の面々も出て、戻らねば土塀越しに抛り出すぞと、脅しつけましたところ、もう一遍取り次いでくれ、十年前、矢矧川(矢作川)でお目にかかった日吉といえば、きっと思い出していただけよう――などと云い、てこでも動く面構えではございません」
「――矢矧川で?」
どうしても思い出せないのである。矢矧川といい、日吉といい、十年も前の路傍の一些事は、小六正勝にとってもう念頭にもなかった。