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ひびのうつり
日々の映り
宮本 百合子
「文芸集団」(名古屋帝国大学医学部学生の同人誌)、1939(昭和14)年第1号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,131 字 · 16 页
「先へ行ったところにないでしょうか」
「ああ、そんなら雑司ケ谷荘だ。じゃあね」
と、そこで教えられたままに行ってみると、その道へは目かくしをうった水色ペンキの横が向っていて、雑司ケ谷荘というアパートの入口は、角をぐるりとまわったところにあった。
往来と同じ高さのなりに薄っ暗い建物のつき当りまでつづいている三和土の入口のとっつきに、土足のままの上り下りによごされた階段がそばだっていて、明るい戸外に馴れた目で入ったばかりではそのあたりのドアの様子さえよく見えない感じであった。白シャツにカーキ・ズボン、板うら草履の男が、バケツを下げて出て来た。ひろ子が空室をきくと、
「ここ当分うごく人はありますまいよ」
元は職人ででもあったような、さらりとした口ぶりでその管理人は返事した。
「ここはやすいからね。新学期でどっとふさがりましたからね。やすい代りに、台所が共同なんでね」
少し笑い顔になって、その不便もあっさり認めている調子である。
そのアパートのすぐわきが、雑司ケ谷墓地の裏口で、どこか植木屋の庭のはいりくちめいた様子の小門があいていた。それがちっとも陰気でなくて、角の花屋の軒下においてある線香の赤い紙の色も、陽を浴びて艶々している手桶の樒の青葉とともに、却ってそのあたりに一種静かな賑やかさをかもしている。