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くわのきものがたり
桑の木物語
山本 周五郎
「キング」大日本雄辯會講談社、1949(昭和24)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,815 字 · 79 页
と云い、懐紙を出して顔を拭くと、こんどは明るく笑いながら、桑の枝々を指さして云った。
「みろ、こんなに生ってる、久しぶりでいっしょに摘んで喰べよう、泣くのはよせ」
「もう泣いてはおりません」
「おれはこの木、おまえはそれだぞ」
「先刻のが桑の酒でございますか」
「帰りに持ってゆくがいい、ひと瓶わけてある」
二人は桑の枝に手を伸ばし、黒く熟れた実を摘んでは口に入れた。
「おれのほうのことは聞いたか」
「お世継ぎと姫さま、お三人儲けられたうえ、名君という御評判をうかがいました」
「悠二郎は子供は何人ある」
「男一人に女二人でございます」
「おみつとは相変らず喧嘩をするのか」
悠二郎は口いっぱいに桑の実を頬張って、もごもごもごと、なにやらわけのわからない返辞をした。正篤もせっせと摘んでは喰べながら云う。
「舟宿の亭主も悪くはないだろう」
「残念ながらそのようでございます」
「うちあけて云えばそれもあったのだ」正篤は紫色に染まった唇で微笑する、「――さっき申したことも事実だが、もう一つはおまえを侍にさせたくなかった、屋敷勤めより、町住いのほうがおまえには似合っている。おみつと添わせて、気楽に一生おくらせたかった、おまえを水に放してやりたかったんだ」