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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

何もかも無くなっていい。ただ楠だけ残って居れば……。」

私は云ってしまって自分でも喫驚した。何か云ってならないことを云ったような気がした。然し私の言葉をきいて、父は急に顔を和げて云った。

「そうだ楠だけは残しておきたい。裁判がうまくゆけばいいが。……なに大丈夫だろう。」

それで私はほっと安心したが、同時に、母が非常に悲しげな眼付をしたのに気付いた。

私は父の言葉をきいて、楠だけは大丈夫だと思い込んでしまった。そしてすっかり心が落着いた。

其後、家には来客がなお少くなった。その代りIとKとは毎日のようにやって来た。然し私はもうそんなことを気にしなかった。何も彼も無くなってただ楠だけが残るということが、私の幼い空想を喜ばした。それは「自由」に憧れる心地と同じようなものだった。

所が或る日学校から帰って来ると、私は意外なことに出逢った。家には、IとKと其他村の四、五人の者が来て酒を飲んでいた。皆縁側に腰掛けていた。私はその前に軽く頭を下げて奥にはいった。すると出合頭に父が出て来た。父は長い口髭の下に唇をきっと結んでいた。そして私は、その時位父の額が広く高く聳えているのを見たことがなかった。