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えのきものがたり
榎物語
山本 周五郎
「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年9月~10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,519 字 · 67 页
おすげの頭はそのことでいっぱいらしい。その話が終ると、まるで貝が蓋を閉めでもするように、自分の中へとじこもってしまうのであった。しかし一度だけ、さわの身の上を知りたがったことがあった。どこの生れか、うちはどこか、家族はあるのか、なんのためにこんなことをしているのか。さわはこれまでみんなに云ったとおり、家族といっしょに旅をしていて、あの山津波にあい、自分ひとりだけ生き残ったこと。故郷は江戸の近くであるが、そこには親類も少ないし頼りにはならないこと。この土地には親やきょうだいの骨が埋まっているから、まだはなれる気持がないのだ、というふうに。
「でもいつかはくにへ帰るんでしょ」
「いつかはね」
「それで越重の若旦那をふってるの」
「ふってるなんて」さわは苦笑した、「もともとむりな縁談なのよ、あたしにはあんな大きなお店の切り盛りをするような才もなし、そんな柄でもないわ」
「わけはただそれだけ」
さわは頷いて云った、「それだけと云ってあなた一生のことですもの、誰だって考えないわけにはいかないでしょ、人間はお金や家柄より大事なものがあると思うわ」
おすげは溜息をつきながら、自分もそう思う、とぼんやりした口ぶりで云った。