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えのきものがたり
榎物語
山本 周五郎
「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年9月~10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,519 字 · 67 页
そうして、ごひいき客のことで知りたいことがあるからと、主婦に頼んで宿帳をみせてもらった。ちょうど夕餉どきで、客もかなりあるらしく、帳場も板場もごたごたしていたし、女中たちもいそがしく立ち働いていたが、角庄の主婦はこころよく、さわの求めるままに古い宿帳まで出してくれた。佐平の名はすぐにみつかった。繰ってゆくと、足助の云ったとおり一年おきで、初めのほうは巳どしと午どしと続いてい、巳どしには松倉屋十吉という者といっしょであり、翌年には独りで泊っていた。
――あの人だ、あの口の重い、むっつりとした人だ、とさわは思った。
まるで濃い霧が晴れてゆくかのように、そのときのことがありありと思いだされた。茶は不調法だからまちがったところは教えてくれ、と云い、じつは会って話がしたかったのだと、云った。こっちにも話題がないし、その客はもっと話しべたで、少しも座がはずまず、僅かな時間で別れてしまった。
そうだ、あの初老のお侍が新発田の溝口家へ仕官したと、よろこんでいらしった日のことだ。
「あれがあの人だった」さわは礼を述べて角庄を出てから暗くなった道をどこへゆくともなくあるきながら、半ば茫然と独り言を云った、「――足助はむかしの名を知っていて、あの人と話しあったという、足助がそんな嘘を云うわけはない、あれは国吉だったのだ」