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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

もうかなり暗くなった杉林をうしろに、音もなく立ちあがった老人の姿は、生きている人間のようではなく、まるであの世から迷い出て来た幽鬼という感じであった。躯は骨ばかりのように痩せて、落ちくぼんだ眼ばかりが大きく、月代の伸びた灰色の髪はまばらで、まくれあがった上唇の下に、大きな乱杭歯がむきだされていた。

「誰だ」と老人がこちらへ呼びかけた。

甲斐は老人のほうへ歩み寄った。

「ここは無用の者の来るところではない」と老人はまた云った、「なに者だ」

老人は持っている杖で身を支え、顔を仰向きにして、じっとこちらのようすをうかがった。落ちくぼんだ眼は大きくみひらいているが、視力はまったく失っているらしい。甲斐は近よりながら、穏やかな声で云った。

「久方ぶりだな、十左衛門、私だ」

老人は大きく口をあけた。杖を持った手がおののき、枯木のように痩せた躯が、ふらふらと揺れた。

「船岡どのか」とその老人、里見十左衛門が云った。彼はもっと歯をむきだしたので、その顔は骸骨のようにみえた、「待っていた」と十左衛門は云った、「いつかは来られると思っていた、いつかはここで会えると思っていた、原田どの、とうとう来られましたな」