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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

と云い、宇乃の顔をちょっとみつめて、そして風呂舎を出た。

片倉隼人が甲斐をみちびいていったのは、邸内の家従長屋の一軒で、もと矢崎舎人の住んでいた家であった。

「これは矢崎の住居だな」

「矢崎でございます」と隼人が囁いた、「中におります」

甲斐は立停って、足もとに眼をおとした。

舎人は去年の春、家禄召上げのうえ追放になった。それは拵えられた罪であった。おそらく一ノ関が糸を引いたものであろうし、甲斐をこころみる手段の一つと思われたので、罪が不明確なものであったにもかかわらず、甲斐は黙ってみすごしにした。それから一年半、行衛も知れなかった舎人が、いま涌谷の密使として来たと聞いて、甲斐は少なからず気持が動揺するのを感じた。――はいってゆくと、黴くさい部屋の中に、舎人は旅装のまま坐っていた。うす暗い行燈の光が横から、彼の陽にやけた顔をぼんやりと照らしており、平伏して見あげる眼に、涙のあふれ出るのが認められた。

甲斐は坐るとすぐに、無感動な調子で使いの用向を訊いた。舎人は文箱を差出した。甲斐は自分でその箱をあけ、中から書状を取り出した。それは長いもので、ひろげると十尺に余るほどあり、紙面がまっ黒にみえるほど、細字でびっしり書きこまれてあった。