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ぼしじょじょう

母子叙情

岡本 かの子

「文学界」1937(昭和12)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,355 字 · 153 页

青空文庫

かの女は不安を抑え切れなくなって、思わず覗き加減に立ち上った。人の隙から空虚なオリーヴ色の壁だけが見えて、そこにむす子の絵はない、かの女はあわて気味に近寄った。錯覚ではない。むす子の絵は姿も形もない。張札だけが曲っている。

「どうしたんだろう、一郎の絵――」

かの女は口に出して云いながら、部屋の中をぐるぐる尋ね廻った揚句、咄嗟に思いついて入口の横の売場へ来た。かの女は少し息を弾ませて訊いた。洋服を着た若い店員は、びっくりして直ぐ弁解口調に云った。

「え、あれはお売りになるのではなかったんですか。でも、K・Sさんは、日本へ一枚でも残す方がいいと売価をおつけでしたが」

かの女は冷水のあとにまた温かい湯をうちかけられたような気がした。驚きはそのまま、心の和みが取り戻せた。

「まあ、誰が買いましたの」

「今夜の汽車でお発ちの方だそうですが、是非自分で持って行き度いと、そう仰しゃるものですから、もう閉場間際だし、包んでお渡ししました。たった今。この方です」

と事務員の出した売約帳には、昔の字画もそのまま「春日規矩男」と書いてあった。かの女は思わず会場の外に走り出た。