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かいりゅう
海流
宮本 百合子
「文芸春秋」1937(昭和12)年8月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,977 字 · 72 页
「どうしましたね?」
「今日はお父様珍しいのね」
「ああ」
泰造は宏子の片方の腕をとって自身は道の外側を暫くだまって歩いていたが、やがて、
「丁度いいところで逢ったから話すがね」
おだやかな、圧しつけるところのない、寧ろ心配りで愁わしげな調子さえ響く声で云った。
「実は昨日、或る人をよこして富岡がお前へ結婚を申込んだ。富岡は、お前にもその心持がある事実をもっていると云っているそうだが――」
セイラア服の宏子は、黙りこくって頑固に自分の前を見つめて歩いた。泰造は、軽い咳のようなものをして続けた。
「儂は断ったよ。――あれはよくない。儂は来た男に、はっきり断った。いいだろう?」
宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、
「ええ」
と云った。
「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」
泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。
「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。