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しぶやけのしそ
渋谷家の始祖
宮本 百合子
「中央公論」1920(大正9)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页
。
八
その、正隆にとっては、寧ろ望外ともいうべき信子を、いよいよ滞りなく妻として迎えて、同じ構えの中に新居を持ち、また、長兄の尽力で今度は、農商務省へ出勤するようになって見ると、正隆は、どれほど謙遜に計って見ても、自分が幸福への、最も確実な鈎を投げた者とほか思われなかった。
物質は、新しい家庭に華やかな色を添える以上に豊富である。生活の変化と共に甦った功名心は、そろそろと彼の胸の中で芽を吹き始めていた。その上、兎角面倒の起り易い嫁姑の間は円満で、彼の眼から見ると、互に競い合っているようにさえ見える二様の愛が、持ち得る総ての奉仕を捧げて、彼の前に呈せられているのである。
一年前の、K県での暗い月日は、今思い出すだけの価値もないようにさえ思われる。正隆は、現在自分を抱擁する薫しい幸運の徴(きざし)の裡に、あらゆる過去の陰翳を否定していた。否定していたのみならず、あの瞬間と、今の、この、光り輝く薔薇色の瞬間との間には、何の連絡もなく思われたのである。
幸福を思って微笑する時み、悲運を思って、思わず眉をひそめる時にも、正隆は決して自分をその中点として描いてはいなかった。